2023年04月08日
【天国に還るための終活】第7回 生涯現役の人生 ―後編―
┃ 本当の終活とは「自分がなぜ生まれてきたのか」を悟ること (#2)
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┃ 2┃講師・僧侶によるコラム:「地域の健康増進に貢献した生涯現役人生」
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「ネバーエンディング・セミナー」講師・僧侶の田中稔之さんのコラムをお届けします。
お年寄りの三大不安は「健康、経済、孤独」だと言われています。そんなとき、地域にお友達がいることや、毎日続けられる習慣があるということは、なんとありがたく、勇気が出ることでしょう。
高齢化の進む地域の人々のために、自分に出来ることを日々コツコツと続け、多くの人々の健康増進や孤独の解消に貢献し続けた生涯現役人生があります。今回はそんなSさんをご紹介しましょう。
Sさんは50代の頃、ご自身の健康のために、近所の公園でラジオ体操を始めました。その後、奥様のふとした言葉に触発され、ラジオ体操指導員の資格を取ることになったそうです。最初は家族三人で始めた朝のラジオ体操でしたが、犬の散歩をしている人や通りすがりの人が一人、二人と参加するようになってきました。
そんなとき、「この地域にはお年寄りが多く、あまり外にも出ず、挨拶もしたことのない人が多い」という話を聞きました。それを聞いたSさんは、「みんなが体操を通じて、日の当たる場所で『おはよう』と声を掛け合える機会になれば……」と思うようになり、毎日、欠かすことなく体操を続けるようになったのです。
長く続けていると、持病を患っていた人が驚くほど元気になったり、参加者同士のおつき合いも盛んになったりして町内が明るくなったと評判になりました。企業のイベントや地域の体育大会にも呼ばれるようになり、毎朝のラジオ体操も参加者が増えて、下は2、3歳、上は80歳以上まで100人近くになりました。
今ではSさんも80歳を超え、30年間、毎日続けてきたことになります。Sさんは「毎日やることがあって、みんなに喜ばれている。それが長く続ける秘訣です」とおっしゃいます。「お役に立ちたい」という持続した思いが、多くの人の心に届いたのかも知れません。
講師プロフィル |
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田中稔之(たなか としゆき) 1959年、真言宗の寺院に生まれ、大正大学仏教学部に進学。僧籍を得るが中退し、コンピュータのソフト開発会社に就職する。89年、幸福の科学に奉職。延べ8,000人を動員している「ネバーエンディング・セミナー」講師として活躍。 |
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田中講師:セミナーのお知らせ
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◆有料 ※詳細は、電話にてお問い合わせください。
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┃ 3┃スピリチュアルルポ:伊能忠敬の故郷を訪ねて~佐原散歩〈後編〉
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伊能忠敬50歳。ようやく隠居が認められ、忠敬は伊能勘解由(かげゆ)を名乗ります。江戸時代の50歳は、今でいう90歳代後半です。忠敬は、何か後世に遺す仕事がしたいと思い立ち、すでに実力を認められていた算術や測量学を活かし、当時、移行期にあった「暦学」、いわゆる暦や天文学について学ぶことを決意しました。
忠敬が暦学の研究に興味をもった時代は、西洋の近代科学の成長期であり、多くの研究者がこの道に進みました。なかでも麻田剛立を中心とする大阪の民間の研究グループは名声が高く、幕府は、暦方の仕事を麻田に委ねようとします。しかし、麻田は高齢を理由に断り、最も信頼していた弟子の高橋至時らに譲ります。1795年、忠敬が隠居して江戸に出た時を同じくして、二人はともに江戸へとやってきたわけです。運命的な出会いです。
至時の門人となった忠敬は、寝る間を惜しんで勉強しました。忠敬の心は、青年のままで、やがてその優れた技術で門下のなかで押しも押されもせぬ存在となっていきました。18世紀の後半は、鎖国日本の近海に外国の艦船が現れ、通商を求めてきました。当初、北海道(蝦夷)にやってきたのは帝政ロシアです。蝦夷地を護るべく、幕府は探検や調査、沿海測量を実施しましたが、絵地図のようなものしか出来ませんでした。
その状況を察したのが至時です。国防のための精密な地図を創るよう幕府を説得。測量や地図作成の実務担当者として、至時は忠敬に目星をつけていたのです。いや、忠敬がいたからこそ、この計画を思い立ったとも言えるでしょう。忠敬の測量技術は一流、名主として佐原の村を統率していた力があり、財力もありました。
もちろん、忠敬は喜んで引き受けます。忠敬の生家の対岸には「伊能忠敬記念館」がありますが、測量に使った道具一つひとつに当時の苦労の面影がしのばれます。また、「大日本沿海輿地全図」の縮尺版等が展示されており、現在の地図と寸分も違わぬ正確さには驚かされます。
さて、当初、忠敬は一介の百姓で、その実力を信用されておらず、“測量試み”と記されています。「銀七匁五分」というのは、金一両の8分の1、当時の2朱にあたります。当時の一両は、およそ8万円。つまり2朱は10,000円となり、一行は6人ですから、宿泊費、食費などを考えれば、多大な自己資金を投入しなければ遣り繰りできなかったことが想像されます。
江戸をたった一行は、30数日かけて蝦夷地に入ります。蝦夷地は難路続きで、日に4里から5里進むのがやっとでした。それでも半年の歳月を経て、測量を終えて一行は江戸に戻ります。約2か月後に地図は完成。後世への参考となる立派な地図で、それ以降、幕府の忠敬を見る目が変わります。忠敬はこれらの業績と天明年間の善行により、幕府より苗字帯刀が許されました。
第1回目が「蝦夷地」、その後、「相模伊豆海岸より奥州海岸」、「出羽・越後」、「東海地方沿岸から北陸沿岸」と続きますが、4回目の測量が終わった2か月後、生涯の師と仰いだ至時が39歳の若さで病死します。忠敬の落胆ぶりは相当なものでしたが、その悲しみを乗り越え、測量は続きました。至時の死から14年、忠敬も天命を全うします。遺言により亡骸は浅草の源空寺に、至時の墓と並んで葬られています。
*** もっとおススメ本 ***
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企画、構成 編集者プロフィル |
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木藤文人(きどうふみと) ジャーナリスト、宗教家。 大学を卒業後、大手広告代理店に勤務。フリーとして独立後、「週刊東洋経済」「プレジデント」「経済界」「ザ・リバティ」等の執筆を経て、2007年、幸福の科学出版に入局。『天国に還るための終活』等、編著も多数。 |
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